昭和五十三年五月七日 朝の御理解
御理解 第十四節 「神は荒れ地荒れ屋敷をお嫌いなさる。」
昨日、ここで修行をいたしております或る若い女の修行生が、ここへ出て参りまして「先生、今日はもう朝から心が淋しうして、淋しうして、そして、ここで腹を立ててはいけないと思うのに、腹が立って、腹が立って仕様がありません」と言うて、それこそ目に涙を浮かべて、御取次ぎを願うんです。
どうにも仕様がない。もう、言うならば、イライラ、例えば、善意であることが分かっておってもそれが反対にしか取れない。
淋しい、腹が立つ、イライラして仕様がない。ね。
こういうことではいけないということが、もう分かっておる。
それにも拘らず、こんなに淋しかったり腹が立ったりする。ね。 人間には、どうにも出来ないそういうようなものがありますね。 昨日の御理解を頂いて、神様がわかり、いよいよ御取次ぎの働きというものを信じておりますけれども、いや、わかっておるけれども、どうにも出来ないというものがある。
けれども、私は、それがね。修行であり、場合はこのようにしてめぐりのお取り払いを頂いておるとして御礼を申し上げる。
どうにも出来ないのを、それこそ「生神金光大神天地金乃神様」と、お唱え続けて行く。
そこんところの精進をして行くということが、信心の修行であり、まあ、言うならば、信行と言われるのは、そういうどうにも出来ない一つの仏教的に言うなら業(ごう)のようなもの、その業が取り払われていっておるんだと、心から御礼の心。いや、心から御礼の心が言えりゃ問題ないのです。分かっちゃおるが、むしろ、めぐりのお取り払いとしてお礼申し上げんとならんとわかっておっても、どうにも出来ない。
淋しさとか、腹立たしさとか、イライラとか。ね。もう、とにかく、人に接することが嫌、自分に善意で言ってくれておることすらも言うなら腹の立つ材料になってしまう。
特にその、やはり女性の方にそれが多いようですね。
女性の方に限ったことはないけれども、昔から「おなご」と言うちから、「おなごは生まれて来るときから業ばかろうて来ちょる」と、言うようなことを申しますよね。
「女(おなご)というものは、生まれて来るところから業かろうて来とる、だから、男性よりも苦しんだり、言うなら、きつい、苦しい思いをしなければならない立場に女性はあるんだ」と、
だから、結局、その業がお取り払い頂けるということは、とても、一とき、二ときで出来ることじゃない。そこに、私は、打ち込んだ信心の稽古が、いよいよ、なされなければならないと思います。
昨日の御理解で頂きますように、神様がわかり、御取次ぎの働きを信じて、例えば、今どういう中にあっても、どういうことであっても、言うならば、どうなるだろうかではなくて、神様にお縋りしておけば「おかげ」になる、必ず道が開ける。
いよいよの時には、こうさせて頂けばおかげが頂けると言ったようなもの、それを私は、まあ、信心頂いておる者の値打ち、ここまではお互い信心の稽古させて貰わにゃならんと思う。
だから、信心の稽古に通って来るという昨日の御理解だったですね。だから、壮健な時ここへ参って信心の稽古をしておけと、ね。 ここに参って信心の稽古をしておけというのはね、勿論、おかげも受けなければならんけれども、信心の稽古が身に着いてくる。段々楽しうなって来る。有り難いものになってくる。ね。
そこに生まれてくる心の安らぎというか、心が穏やかに過ごすことができる。そして、おかげが受けられるという安らぎ。
壮健な時ここへ参って信心の稽古をしておけというのは、もう一つその向こうにあるところの安心、絶対、言うなら、安心立命。
どんな場合であっても心の中によろこびを絶やさない。どんなことに直面しても微動だもせぬ不動の信念が培われてくる。
壮健な時ここへ参って信心の稽古をしておくということは、ね。 そういう心になるとね、神様が病気なんかさせなさらんです。
ですから、ずーっと壮健なんです。一生壮健なんです。
ですから、本気で一生、例えばお参りならお参り信心の稽古に打ち込まなきゃいけんのです。
ですから、もう、そこには不動の信念も、言うならば、死生の安心すらも生まれて来るような、これは信心でなければ頂けない境地が開けてくるのです。
そこまでの過程にです。分かっちゃおるけど止められないというものがあるわけです。人間には。
改まりの上にでもそうです。ここをこう改まればおかげが頂かれるというようなことも、信心が分かれば分かる程、はっきりしてくるです。
「俺もここを一丁改めなければ」、「私はここんところが、心の切り替えが出来ない限り、おかげは受けられない。」と、言ったようなことが分かって来る。
それが何かの機会に改まったり、切り替えが出来たりして来るところに安らぎの心というものが段々…。
普通で言う楽天家というのがある。これはつまらん。どんな難儀の中にあったっちゃ、もう本当に楽天的な人がありますよね。お金が有ろうが無かろうが、家にどんな問題が有ろうが。それでは助かりは無い。
私どもが信心して、天地の親神様の言うならお心が分かり、そしてお取次ぎを頂いて、お取次ぎの働きが信じれるようになるから、心が楽なんです。
ですから、楽天的なと信心による楽天的なというのは内容が違う。 昨日は、そういうことでしたよね。
信心を頂いておると苦にならない。楽天的な、言うなら頂き方ができる。それも心が安らぐ。その心におかげの頂けれる楽天的な心なんです。
昨日、私は神様のご都合だと思いますけれど、久留米の井上さんが日本タオルをここに一本持って来てます。
久留米の近見市長が書いておられるそれを染め抜きにした日本タオルなんです。そりゃあ、見事な字を書いてございます
それにはね、「天楽克己」と書いてある。「天楽いわゆる楽天、己に克つ」と言うことなんです。
私は、これは近見先生のまあ、一つの生き方と言うか信条と言うようなものであろうと思いました。
意味はどういうことか分かりませんけども、私は、その文字から、「ほう、神様のご都合ちゃ…。」、昨日の御理解を一口で言えば、天楽克己ということだったんですよね。
今日は、井上さん、持ってきちゃないですか。あのタオルは。
(井上さんは「太門が持ってます。」と答え、太門さんが親先生に持って見せる)
昨日、これを持って見えたけど、なんか、私は合楽の信心の素晴らしさは、いつも神ながらであるということですよね。
だから、皆さんも神ながらに受けさえすればおかげが頂ける。ね。 天楽克己、これはどういうことかと言うと、一口で昨日の御理解を表現するとこれなんです。
信心させて頂いたら、本当に楽天的になったと言うんです。
安心が出来たと。それをね、いつも自分に、我に克つことの修行を一生懸命しておるから、こういうおかげが受けられたと言うのです。
だから、一口で言うと、昨日のこれが御理解なんです。ね。
ところが、いつも申しますように、己に克つということは大変やはり難しいことです。
歌の文句に有りますよねえ。「他人に勝つより己に克て」と。
一口で、それこそ申しますけども大変なことなんですよ。やはり。 昨日、女の修行生がここでお届けさせて頂き分かっているんです。自分でそういう心に本気で取り組んでです。どんな場合でも喜びを絶やさないで済む稽古に、そのことだけに専念しているんです。
それでいて、淋しうして、淋しうして、見るもの聞くものが腹の立つ材料ばっかりある。
分かっておるけど、どうしようもできないという心なんです。
なら、今日の御理解で申しますと「神は荒れ地、荒れ屋敷をお嫌いなさる」。
自分の心の中が荒れており、荒れ屋敷であり荒れ地であったのでは、おかげが受けられないことが分かって、どんな喜びの種を聞いても、どんなに有り難いお話を頂いても、それが負えない、芽が出ない、喜びの花にならない。
心が浅ましかっちゃ勿論なおさら出来ない。
天地の間には、それこそ億年かかっても、丸うせずにはおかんという働きが有ることも、段々信心によって分かってきた。
神様がこういう腹の立つような問題をもって、私の頑固な心、角のあるところを丸うせよ、丸うせよという働きであることが分かっておるけれども、どうにも仕様がない。
大体、ここは、ちょっと考えてみると食べることに不自由しない、住まうことに不自由しない。身体は健康である。何処を押しても、御礼を申し上げる外ない程しのおかげ頂いとっても、どうにも仕様がない。心の中というものは。
心が暗くなる。心がイライラする。腹が立つ。そして、そういう自分がもう嫌になって、それこそ、淋しうなるごとある。いや、もうそれこそ、あげん時かこうした時が自殺したくなる時じゃないあいですかね。人間は。
もう、自分というものが、もう、いよいよつまらなくなる。分かっておるけど出来ない。その腑甲斐無い自分というものが自分に見切りをつけるようなことにすらなってくる。そうじゃあないでしょうか。ねえ。
ここではニコニコしとかにゃならんとこでも、心がそうでないから、どこの端にか現れる。いわゆる、荒れ屋敷である。心が荒れておる。荒れ地である。
ですからね、そういう昨日、岩部先生と言う修行生がおります。 大体、里庄教会の修行生です。けれども、ここに修行に来とりますが、この頃から、こちらにあちらの総代さんがここに一遍見えまして、おかげの泉を百冊買うていかれました。
そして、いわゆる合楽の信心を自分の教会にもと言うことなんです。その方が合楽を見て帰られた。
そして、言わば岩部君はどうでも合楽に転籍させるべきだと思うて、今の金光様に御取次ぎを頂いた。
そして、里庄教会から合楽教会へ転籍させることをお取次ぎ頂いたら、金光様は快ようお許しを下さった。ですから、こちらに引き受けてくれと言う手紙がこの頃から来ております。
けれども、やっぱり里庄、私はどういうわけか知らんけども、「里、雲、流れる水」と、心行中に頂いたと言うのです。
どういうことじゃろうか、「行く雲。流れる水」という言葉がありますよね。それこそ、雲が風の間に間に動いておる。それこそ、全てのことを流れる水のように流している。まあ、仏教ではそれを雲水行と申しますよね。雲水の行。
ですから、この雲水行がお道の信心によって出来たときに、素晴らしいお徳が受けられる思うですね。
仏教ではどうか知らんけども、仏教でもそういう淡々とした心が開けて来るという。
この頃から、何年か前です、池田先生達が修行中の時分に、或る大変な修行精神の強いお坊さんが、「自分が何処で生まれたかも分からない、自分の年も知らない。」というような表現をする。で、本部へ行って、暫く本部で修行をされた。
本部学院に入ってじゃないけれども、その本部教庁に自由に出入りして、金光様の信心の話を聞いて、たまたま池田先生に合楽の話を聞いて、「合楽に一遍お参りさせて頂きたい」と、その当時言うて来とりました。
そしたら、先日、二、三日前でしたが、その人から葉書が来とる。 そりゃあ、なかなか達筆で、もう本当にむかーしのお坊さん、もうそれこそ何と言うでしょうかね、実に爽やかな感じです。もう欲得を放してしまっているわけですね。
そして、いわゆる行く雲、流れる水の修行として、もう日本全国行脚しながら、その修行して回っておられる方なんです。
だから言われることが、欲得を放しておるから、もう実に淡々としておる。
だから平気で、例えば、一度出立すると、「今、何処何処におるから、金一万円送ってくれ」というようなことを言うてやんなさるそうです。
この頃から、佐田先生の弟もその人といろいろ懇意だそうですから、この頃、佐田先生のところにお金送ってくれと言ってやったげんけんで、皆が出し合うて一万円送ってやった。
けど、これじゃあ、いけませんもんね。
だから、仏教で言う雲水行と言うのは、そういう人間の言うならば、生々しい幸せには繋がってないことが分かるですね。
自分の心は淡々としている。それこそ、他人のものもなからなければ、我のものもない。
他人の懐の中にあるお金なんかも自分のもののごと思うてござる。 だから、「なかなか爽やかだ」と、こう言う。
だが、私は今日は、例えば、雲水行のような修行、いうなら、いよいよ成り行きを大切にさせて頂くというような生き方が身に着いてくると、お道の信心によってその雲水行が出来るならばお徳を受ける。
とにかく、他人に金どん借りてさるかなんようなことは絶対起こらないと思うです。
ここに私は、金光教の信心の生きた姿が有ると思うのです。
必要な時には必要なものがチャッと頂けてくるようになる。
それを私は、お徳と、こう思います。
お取次ぎを頂いて、そういうお取次ぎを頂く、そして、私どもの中身にあるところの業とも思われるような、これがこうすることが本当ということは信心によって分かるでしょう。
天地の親神様とはこういうお方だということが分かる。
この神様は、もう人間だけじゃないですけれども、一切のものを億年かかっても丸うせずにはおかんという働きのお方だと。
だから、自分の上に起きて来る、例えば問題であっても、私に、「おかげを受けてくれよ」、「和賀心になってくれよ」、「このことによって角を取ってくれよ」、「浅ましい心を改めてくれよ」という神の願いが、こういうイライラしたり腹の立ったりするようなことになって来ているんだと、分かっているけども、どうにも仕方がない。
淋しうて、淋しうて仕方がない。
腹が立って、腹が立って仕様がない。
そのことが、いうならばおかげを頂くために、わざわざ、ここに入り込んで修行をしておる、専念しておる人ですらも、そういうどうにも出来ないものがあると言うこと。
ですから、いよいよもって、己に克たせて頂くところの信心修行が要る。
それが、私は心行だと思うのです。
心行とは、不平不足を言うてはならぬ、暑い寒いを言うてはならぬ。
心に感ずる暑い寒い、心に感ずる言うならそれが不平ともなり不足ともなって現れるようなことがないように心掛けることが心行だと、こう言う。
自分の心の中に、これこそ自分の業とも思われるようなどうにも仕方がない。
ここに今度、学院に参ります脇山と言う修行生がおります。
もう、私が一番初めに会うた時から、「どうしたこの人は淋しい人じゃろうか。」と、その代わり、もう女らしうて静かで見とるとこっちまでが悲しうなる様な顔をしとるです。
まあ、本当にいろいろな性格があるなと思うんです。
笑いよったっちゃ泣いちょるごたる様な顔しとるです(笑い)。 そういうようなものを自分でも感じだしたから、本気でお道の修行にでも入らせて頂こうということになったんでしょうけれども、先日、御両親がお礼に出て見えました。
先日から壱岐の方へ、壱岐から来とりますから、帰らせて頂いて、とにかく両親がびっくりしたことは、「もう一人ではしゃいで、もう、とにかく家の中を一人で笑わせるようなこと言うたり、朗らかになっておるのに、もう驚いてしもうた。」と、末永先生にそのことを言って帰られたと。
そう言や、この頃明るくなった。
どうにも出来ない性分と言ったようなものでも、それを変えて行くところに信心があるのです。ね。
だから、おかげの受けられる性格、おかげの受けられない言うならば性格とか性質というものはあるものじゃない。
いろいろあるけど、信心によって、どんなに、どげな苦労でも、ホケのごとしとる楽天家というのが、なら、おかげがうけられるかと言うと、一生楽天家で終わらんならん。ね。
良かろうごたるけども、それじゃつまらん。
どんなに悔やみ好きの人であろうが、楽天的な人であろうが、信心によって、その性根が変わってくる。
それには、どうでも己に克たせて貰うところの信心、いわゆる、天楽克己ということになるのです。
信心は、だから、本気で自分の「ここで腹かいちゃ出来んとけどなあ」と、自分で分かっても腹が立って仕様がない、その腹の立つ心を捕らえといて、取り押さえて、それをいよいよ研ききっていく修行。
だから、信心修行というのはね、一遍習うたからもう合楽の信心は分かったぐらいのことで頂けるもんじゃないことが分かります。ね。分かっとってもどうにも出来ないその心に取り組んで行く。
そして、その荒れ地が開墾される。ね、信心の教えという有り難い言うなら肥料を施しますから、いやが上にも心豊かになる。
言うならば、豊穣の地、豊かな地、何を播いても根が生える。芽が穣る。花が咲く。
そういうおかげを頂くために、神は荒れ地荒れ屋敷をお嫌いなさる。
自分の心の中の荒れ地荒れ屋敷が、豊穣な言うなら豊かな心になって行くとき、私は豊かな心の世界に住んでおるから、豊かな、物にも金にも不自由しませんと言うようなおかげが受けられるのです。ね。いよいよ豊かな心、言うならば和賀心、和ぎ賀ぶ心を目指さして頂かなければならない。
どうかした調子に、そのイライラしたり、淋しかったりするように、そういう様な業のお取り払いを頂けるようなおかげを頂きながら、信心の稽古をさせて頂く。
岩部先生が頂いたという雲、流れる水、それに里という字がついておった。
ときには、いよいよ、やはりホームシックにかかるようなこともあるだろう。
けれども、そういうものを絶たせて頂く修行には、いよいよ、風の吹くままに自分の心の雲が払われる。どういう場合であっても、成り行きをいよいよ大事にしていくところの。
例えば、どういうことであっても、それを流れに流れる水のように、それを流し切って行く。
「あれが言うたことは忘れん。」
そげな心ではおかげにならんです。
「俺は一生忘れん。あれから、あげなこと言われち。」
そして、「いつか言うて返さにゃ。」
そういう心があっては、信心はおかげにならんです。
それをそれこそ、神様のご神意、神様が丸うせずにはおかんと言う働きだと分からせて頂いて、流れる水で流して行くところの心の状態。
頑固な心を、いよいよ成り行きを大事にさせて頂き、そのことに取り組ませて頂いていくということがです、言葉で言うと簡単ですけれども、それに打ち勝って行くということは、やはりそれを「はあ、これが心行だな」と分からせて頂かにゃいけません。
信心をする人達の中には、それこそ火の行、水の行ですらする人があります。
それを自分の心の中に「これが火の行に当たるのだろうか。」、「これが水の行にも当たるのだろうか。」と思うて、火の行、水の行をさせて頂く。言うならば、水火の行だと思うてさせて頂くときにです。それが言うならば、楽天のおかげになってくるわけです。 何時どんなことがあっても心が和らいでおる、それこそ爽やかな心の状態です。おかげが頂けれる。
私どもの心の中の荒れ地荒れ屋敷をいよいよ整然とし、しかも、それが耕され、しかもそれに肥料を施していく、そして有り難い、言うなら教えの種が播かれる。
朝のご理解を基にして今日一日をというと、そこに必ず体験が生まれる。又は、おかげが生まれる。
昨日は、伊万里の竹内先生のところのお母さんの五年の式年祭が大変盛大にここでございました。
朝の御飯の時でした。「ホー、あそこに立派な赤子花が咲いとるのー」と言ったら。
ちょうど泉水の向うに一株植えてあるですから、毎年彼岸の頃になると、その彼岸花が咲くのです。赤子花。
したら、繁雄さんが「何の今頃咲きましょうか。あれは貴方、秋ですばい。」
「ほんに秋じゃったなあ。ほんなら何だろうか。」
真赤なつつじが、ちょうどいつもあれが咲くところへ咲いているんです。私は彼岸花だと思うとった。
「本当に、そげん言われりゃ、今頃彼岸花の姿は無かの」と言うておった。
そのことを昨日の霊前で、神様へお届けする時に頂くんですよ。 暑さ寒さも彼岸までとこう申します。
霊様のおかげを受けておられる状態、それこそ暑くもなからなければ寒くもない、今日のご理解で言うならば、楽天のおかげです。 安心、喜びの霊、彼岸と言うのは彼岸のかなたと、自分の願いが叶うた。その彼岸に渡らせて頂いたということだ。
それこそ、もう若い時から大変修行の出来たおばあちゃんでございましたから、本当に自分の子供、孫の中から、お道の教師にでも引き立て頂くといったようなことが、もう第一、おばあちゃんの願いが叶うたことになるでしょう。正教先生のことです。ね。
それから、この頃、市長選にそれこそ大変な差をつけて、また再度の市長としておかげを頂かれることになった。
もう、どれを思うても、これを思うても願いが成就した。
霊様の喜びも、もう本当にこの上なかろうという様な、なるほど彼岸の、言うならば、暑くもなからなければ寒くもないという様な心の状態の霊様であるというお知らせを頂いて、そのことを聞いて頂いたことでしたけれども。
それにはね。どうしても精進しなければならん。
自分の心の中にあるその心に取り組むということが、ここではこうが本当だと思うておっても、その本当が出来ない様な弱さを人間は悲しさを持っている。
これが業というものだろうかと、けれどもそれに負けては楽天のおかげにはならない。
それに打ち克っていくおかげ。
それがです、ね、三年信心し、五年、十年と段々続いていくうちにです、もう本当に不思議、もう昔の私ならとうに腹の立つこつじゃろうけれども、腹の立つどころか心の中にお礼ば申し上げる心が生まれて来るち、皆さん思うでしょうが。そういう経験があるでしょうが。
それが、いよいよ本当なものになっていくということなんです。 昨日、一昨日、岩部先生がえらい深刻な顔をしてやって来ましたもん。どうしたじゃろうかと思うて私が聞いたら、
「今日は久富先生からおごられました。」
「あんたがおごられる様なことしとるけんたい。」
それが、明日の竹内先生のところの霊祭なのに親玉串がちゃんと用意してあった。ところが、その前の晩にたまたま急な霊祭があったもんですから、それを途中から切ってからそれば使うたち。
「これば切らんでん他にこげんあるのに、これは親先生の玉串」と言うておごられたげなたい。
それで、クーッとしてしもうちからですね、もう一日クーッと。 「それば、あんた、それこそ流れる水で流していかにゃいかんじゃないね。そりゃあ、憎たらしいけんでじゃなか。そりゃあ、あんたが分からんかったけんで、おごられとるとじゃけん。」
「そげん、おごられてん、『いやあ、どうも済みまっせん。』ち言やあ、それで済むと」
それを自分じゃ深刻に受け止めたわけです。
と言うのですから、もうそれよりか、今のとは、お榊は、すぐ芽がクシャーとなるでしょうが。それなら、明日の朝ね、始まる前にうちの庭にある、そげん太かことは要らんからそれを一本切りなさいと私が言った。
昨日は、それが切ってありましたから、もう生き生きとして、朝のうちに水切りまでしてあるから、瑞々しいお榊でした。
そのことを昨日、お話の中に話すんですよ、私がね。
だから、何でも同じことで、なら、生き生きとしたお榊を頂きたいならば水切りをするとか、何かそこに手を加えなけりゃいけない。と同時に、人間が加える精進と、それこそ自然の働き、昨日はああしたおしめりでしたから、日も照らんから、なお生き生きしている。 自然の働きと私どもがちょっと心掛けたり精進したりによって、生き生きとした榊の木、言うならば、私の心の中の神心というものは、いよいよ生き生きしてくるんだよと。
だから、自然の働きを受けると自分の働きと一つにならなければいけない。ね。
だから、今日、皆さんに聞いて頂いたのはそこなんです。
もう、私はこれが性分じゃけんと言うて、腹が立ったら、真面目に人に言えんことでん何でん、他人の真心を傷付ける様なことを平気で言うたり、態度に出したりする人がおる。
そういうのを「荒れ地、荒れ屋敷」と言うのです。
それでは、神様がお嫌いなさるとおっしゃるんじゃから、おかげの頂けるはずがないでしょうが。
「ありゃあ、あの人はもう本当竹を割ったごたる人、言うてしまえば、後は何もない」、そういう人がありますよ。
けれども、そりゃあ自分は気色の良かろうけれども、それではおかげは受けられん。
そういう人が、いよいよ精進させて頂いて、それこそ爽やかなまでの心で、行く雲、流れる水の様な心の状態、そういう修行させて頂くときに、ね、天楽克己が願われる。
己に克って行く修行、それを言うなら、今日は心行だと聞いて頂いたですね。 どうぞ